昭和45年1月21日 朝の御理解

御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ、一人信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが、みな逃げておるぞ」



「日に日に生きるが信心なり」と、日に日に生きるが信心と、「信心に連れはいらん」と。
このし、ここの所をですね、ええー検討しないと、この御理解は、あーなんと言うかね、腰砕け的なものに感じられるですね。 始めの「信心に連れはいらぬ」とおしゃとるところと、「日に日に生きるが信心なり」 ここではね、ここでおしゃる信心とは、「日に日に生きるが信心」と言う信心なんです。 信心に連れはいらんと(?)ね、になるとおかしいですよね。 んー「信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが」なんて言うなことは、このようなところが解らなくなってくるんです。信心には連れがいって、死ぬる時には連れがいるっていうはずは、絶対無いですよね、お互いそうでしょうが。信心しよるけんで信心友達ば、「私が死ぬる時に、あんたもこんの」ちゅうことは、いらないし、思いもしませんし、いらんでしょうが。「信心にもつれがいりゃ、死ぬる時も連れがいろうが」とおしゃるけど、「いいえいりません」と、こう 言う事になるでしょうが。ね、ですから、そうでしょ、ですから、ここんところを間違えると、そんな風にしてやはりあのこの御理解は、
腰砕けになるような感じがするです。だからこの御理解は、非常に、あのー 深いものだと言う事ですね。(?)でも、知らなければ。まあ勿論、この全体から受ける、そのー
かんじんところをですね、ええーー その前の24節のところを見て御覧なさい。
「人に誘われて証拠となしの信心は付け焼刃の信心じゃ」と、「付け焼刃の信心は取れやすいぞ」と、「その身から打ち込んでの真の信心をせよ」とこうおしゃっておられる。 ね、
人に誘われてから、あのー 「今朝は朝の御記念に参るけんあなたもお参りしなさらんか」と、「んーあたしもいっぺん参ってみろうか」と、確か(?)参ってみろうかというほどの連れはですね、誘われ、いわば証拠となしの信心ですから、長く続きませんよ、ね。そういう意味だと、そういう意味にとればいいです。かるう意味にですね。ですから、または、
ああー 「あなた、私明日参ろうと思いよるけん、明日あなた参らんかぁ」と、こう、
「イヤー私は、なんか用あって参られん」 「そんなら私も参りめえ」と、言うような事にも
なってくる人もおりましょう。いわゆる、(どしなげき)をする。ね。連れが参らんから自分も参らん、連れが参るから自分も参る。そこんところを、24節を見ると、解るとですね、
それはね、お参りさせて頂いたそっから信心になっていく人もあるけれども、それは、やはり付け合い場的なものだから、取れるとおしゃる、取れやすいとおしゃってる。ね。そうした信心からやはりその身から打ち込んで、真の信心を目指して、ね、「その身から打ち込んでの真の信心をせよ」と24節におしゃっておられますけれど、だんだんそれが、ああああー
24節から25節になってまいりますと、「信心は、大きな信心がよい、迷い信心ではいかぬ、一心と定めい」と、おしょるような、ま、ああー すばらしい信心の焦点をここに出しておられますね。そして、26節にいたって、ええー「信心に連れはいらぬ、一人信心せよ」と、「信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうが」と、「みな逃げておるぞ」と、「日に日に生きるが信心なり」と、どうも、おおー ちょっと頂いたんでは、ああーちょっと頂けば、あの今言うように、「信心には連れはいらぬ」と、「一人打ち込んだ信心する」と言う事、まあ、ああー「  ?  な信心ではいけぬ」と、又、「取れやすいような信心ではいけぬ」と言う事(  ?  )に聞こえますけれども、そうではない事が、「死ぬるにも連れがいろうが」
とおしゃてるような、まあー言う、この「死ぬる」と言うような言葉を使っておられる所に、この御教えの、おーまあ、げんだいさと言うかね、深さがあると思いますね。
私今朝、あのー御祈念中に、んー「旅は道ずれ、世はなさけ」という事を、頂いた。これは、( ? )にありますように、昔からある言葉ですね、ことわざです。「旅は道ずれ、世はなさけ」と、そして、教典を開かせて頂いたらこの26節です。してみると、「旅は道ずれ」という、ここんところを、「信心は道ずれ」というその道ずれがいるという事、ね。
「連れはいらぬ」とおしゃるけれども、ただし、その「世はなさけ」と言うところなんです。ね。そこで一つあの、んー 信心の心得のところにね、御神戒の、んー「わが身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと」とありますこの御神戒に、「我が身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと」ね。こういう所の、言わば、あー深さというか、信心がだんだん解って、んんー(舌の音)本当にええー自分が助かって行きよる、その、
事を思うただけでもです、世の中難儀な人がたくさんある、その、例えば難儀な人にです、お話しの一つもしなければおられん、お導きをして連れてお参りもしなければおられないと、ね、このへんが、「世はなさけ」と、こう、ね。信心させた頂いてだんだん神心って言うか、神情が生まれてくる、神情が生まれてくるに従ってです、ね、自分が助かって行きよる、自分が有り難いならです、ね、毎日毎日不平不足ですごしておる人、毎日毎日を難儀の中に生活しておる人を見たらです、こりゃあ 道ずれにしなければおられない、神様の事言わなければおられない、そこにです、ね、ええ 私は、ああー「旅は道ずれ、世はなさけ」と言う事を、ひそいでおられて、今日の26節につながってるのを、そういう所を、ではなかろうか、よう思うんです。ね、本当に有り難い、ね、私はああいう心の上にええー難儀な、例えば、ああー悩んでおった事がです、「お参りをさして頂いてこの様に解決した」と、「あなたも参ってごらんなさい、お参りしなさい」と、例えば、積極的にお導きをさしてもらう、そこに、信心の連れが出来る。ね、「なるほど、信心は、道ずれ世はなさけと言う事になるですね。だんだん道ずれ、世はなさけ。ね、(一息吸われる)「信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが」と、これを・・・(  ?  )に頂けば、「信心しよるぐらいで死ぬる時に連れを連れて行こうとは思わん」「いいえいりません」とこう言いたような感じですよね、「そげん難しゅうに考えても、そんな事は考えとりません」と、いっきにこう、おお そういう風に、反・・反発したような感じがするですね、ここんところは、皆さんどうでしょうか?「信心しよって、信心・・死ぬるにも連れがいる」なんて思うたこともない、私達は思わん、誰もそげんついて来てくれる者もおるまいし、又、連れて行こうとも思わん、ね、けどもそういうように(   ?   )してあるところはです、が、私は、「信心に連れはいらん、信心に連れはいらん」と一番始めに歌って、一番最後に「その信心とは、日に日に生きるが信心なり」と締め括っておられるところに、ここんところが生きておる。ね。開口一番「信心連れはいらん」とこうおしゃっておられる、一番最後に、なら連れはいらんというような信心はどういう信心かと言うと「日に日に生きるが信心」だと、そういう信心には連れはいらんというのである、「日に日に生きるが信心」だと、御解りになるでしょうかね、そう頂くところにそこに?信心という事はね、いわいるそこんところを、「日に日にさら」とこう、三代金光様はおっしゃてる「信心とは日に日にさらでございます」とこうおっしゃっておられる。「さらでございます」と言う事はね、もう古いものはついていないと言う事、「もう昨日の信心は今日の信心じゃございません」と言う事、いわいる「もう過去の信心は死んだものです」と言う事。ですから、ね、「日に日に死ぬる」が、いわいる、信心だと。日に日に自分というものを、ああ 「もうないものだ」と、そこに、誕生しておるものは、今日生まれておるものは、「もう新しい私なんだ」と、昨日よりも、ね、少しはましな私、変わった私だという事なんです。だから、そこに、自然思う事も、考える事も、新しい、さらな、思いが付いてくるじゃないでしょうか。「日に日にさら」とは、だから、ね、「過去の自分という者をほおむっていく」という信心。そこに、新しく誕生するという事、そこにです「日に日に生きるが信心なり」と、と最後に締め括っておられる、一番始めに「信心は連れはいら・・信心には連れはいらぬ」という意味が解ってくるでしょ。(せき)この「日に日に生きるが信心なり」なんていうその、ことを、ことを、聞いただけでも、なんと、信心・・心がはずんでくる感じがいたしますね。素晴らしい(ふめい)文句だと思いますねここんところは、「日に日に生きるが信心なり」ね、ここはもう理屈じゃないですね。「はア、素晴らしい」と、「日に日に生きるが信心なり」っていうのは、本当非常にこう生き生きしてくる。あのおー (   ?   )ですかね、あの、堀尾先生から聞かせて頂いたんですけれども、えーあのー 総代さんが、福岡の大学病院に入院しておられた、もおー 医所は、あー 終末ばかりのような、患者が同室に2人おった、同じ病気、( ? )の病気だったらしい、ところが、一人の人は、んーー 仏教信者である、毎日毎日おきょうをあげられる、ベットの中で、と合唱しながら、様々な自分の知っとるだけのいわいるおきょうをあげて、自分の(死期)を近づいて来るのを、心安らかにあの世にいこうというのである。方一ぽうの人は、その、教会で総代でもするくらいですから、「生神金光大神天地金乃神」と祈っておられた=(笑いながら言われた)。ところがその毎日毎日その度こうやって、えーその、相手の人のおきょうもんを聞いておられると、もう、心がめいってしまう、もうこっちがまいるごとある、そこである時ベットからベットへ、その、「あなたは、仏様の信心をなさるらしいですよね」「あなたのおきょうもんを聞いて行きよるともうこっちの方がまいるごとある」「じつは私は金光様の御信心を頂いとる者ですけれど、金光様でわですね、あーいわいる日に日に生きるが信心なりと教えておられあります」「今日も、ね、今日も生きておったという事を喜ぶという事、が金光様の御信心とは、それを、何とは無しにあなたのおきょうもんを毎日毎日聞きよく、ところが、(  ?  )もう今にもおもかげ来るような気がするが、いっちょそのきょうもんやめて下さい」っち言わっしゃった。それこそ寝ながら、門を、それこそはじかれたように びっくりされたらしいですね。その話を聞いて。「もう何と世の中には素晴らしい御教えがあるだろうか」と、まあその時の実感をそう思われたという事です。ね。なるほどお互いが、ね、いつも私共のそばでは、いつお迎えが来ても、地団駄ふんだり、せんですむように、有り難く行かれる、そういう姿勢観を持っているという事は素晴らしい事、その姿勢観をなら作る為にです、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」唱えておると、私共もなら姿勢観を作る為に「日に日に生きるが信心なり」って信心をするんですよ。日に日に死ぬ・・・ね、けれどもその「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というそのひげきと「日に日に生きるが信心」という、「私共はこういう信心をしております」と(  ?  )と言う時に、その横のベットの人がです、はじかれたように、「まあ世の中にはそういう信心がありますか」と言うて、始めて、その横の、隣のベットの人の話を聞きになられて、それからもう日々です、ね、金光様の御信心を寝ながら聞かれたという事、ある晩の、お ちょっと見たところが、ベットに休んでおられない、時間をずいぶん待つけどもおられないから、「あら、どうかされたんじゃろうか?」と思うて、其のまた心配になって、自分もじーっとその、まあきつい体を引きずるようにしてでしょうねえ、そんな状態ですから、その、出てるところが、便所にも行ってない、えー、どうも外に出られた気配があるので、もしものことがあっちゃならんと思うて、まあ後を付けて、後を付けてというが、まあ行かれた様な、道を(  ?  )と、おー、きゅうだい院の、病院の中は広おーい花畑があるそうですね、それこそ、つきあかりにこうしてすかして見てみるとその花畑の中に、人がうずくまっていると、(  ?  )されたんですよね、足音しのばせてです、とそこに行かれると、もう、大地に座って一生懸命御祈念しよって、「生神金光大神、天地金乃神」と唱えながらです「日に日に生きるが信心なり」 「日に日に生きるが信心なり」と、言われる、そのた、帰って来てからですね、その人の御祈念を、まあ終わって帰ってこられるのを待ってから、もお(?)信心にすがっていくこと喜びあわれて、それから何日かの後にはですね、病院から許しを、は、(  ?  )せんもんですからこっそりとですね、そこを逃げるようにしてから、あらたの教会にその方がお参りされた。もうあの、あらたの教会の入り口まで来られた時にはもうへとへとで上に上がる気力がなから・・あら・・(?)じゃった。ね。それを、(  ?  )の御結界からハイハイでもよいからハイハイしておいでっち、言うてそのそこのあがり道に立っておられるその人を、てまねきして、御結界に呼ばれて、こんこんと天地の大恩をとかれたという事です。ね。今まで様々な信心其の方のうちに行くと、もうそれこそ、自分の周には、何何様、何何様と、大きな音を立ててですね、非常に若い、若い、けれども、信心深い人である、御武道様がもう御祭してあろうか、( ? )が御祭してあろうか、( ? )のてらさんの様にその人の周には、もう、いわいる信心深・・そういう方だったらしい。が、一度「日に日に生きるが信心なり」を聞かれてです、ね、心がはずまれた、そして、そこに、生への終着というよりも、光明が見えて来た、ね、「今日生きておるということだけでも有り難いんだ」とそういう、あ、ものがです、今まで、いわいる死期を待つ、ただ死生、いわいる安心して死んで行けれる、バタバタせずに死んで行かれる為に、きょうもんを、ベットの上であげておられた人がです、ね、御道の話を聞かれるようになり、教えを繰り返し唱えさせて頂くようになり、はぐようにして教会に行って、頂かれた天地の大恩、「知らなかった」「こういう神様がおられる事を知らなかった」としてです、天地の大恩に基いたところの、またそれに放射する心持ちを持って、天地の御恩徳に、御道理にすごうした、生き方が、人間になさらなければならない事実を、言わば、真実を知られた。(  ?  )でも、そこんところのお詫びがでけたり、お礼が言えたりする様にだんだんなられて、一月ほどとうしてですね、あのお許しを頂いてから、えー福岡の教会に病院から日参が出来られるようになられた、あまり奇跡的なおかげを受けられたので、ね、自分は御道の おー 信心によって助けられたのであるから、ね、どうでも一つ、私の様に難儀な人達が、言うなら、たくさんおるから、其の人達を取り次ぎ助けさせて頂けれる、道の御用に使うて頂きたいと言うので、道の教師を志された、それが、ね、山口の、おー あそこは何とか言うと?あの、( ? )と言う先生が(  ?  )。私は福岡で修行中に、時分に、よく大祭なんかの時には、前の晩からお参りになりますと、もうー三時ごろから(?)私よりはよう参っとっと、ですから、まあ、これは、(  ?  )「ああ、この人ばかりは先生ばいなあ」といつも思いよった、やっぱ来ておられて、お参りから、そういう様な、熱心な信心をしておられる、実にそれこそ仏様の様な方ですね、感じが、(  ?  )(  ?  )先生の、おー、 近所ですから、えー、合楽の事話したら、「ぜひ自分も行きたい」と言うておられるんですけども、色んな、あー、関係があってこられない。「一遍行って見たい、大坪さんなら私も知っとる」と言われるそうですけれどね、んー、まだ、御縁が無いですけれども、そういう様なおかげを非常にして御比例を頂いておられます。その方の御弟子さんが、ええー、福岡の教会の、おおー、二番目の、お嬢さんをもらわれて、今度福岡の、中・・中福岡じゃない、なかはたかなんかね、高橋さん、あちらえ布教に出られましたですね、高橋先生の御弟子さんです。という様にですね、その、道連れが出来ている、たくさんの道連れが出来ている、ね、そういう様にですね、この御教えは例えば、御教え全体でわなくても、例えば、「日に日に生きるが信心なり」と唱えておっても、心がはずんで来る思いがするですね、教えの素晴らしさです。じゃ、これを、けれどもなら、噛んで含める様に頂くと、なんか、腰砕けになったような感じがして来るんです。御理解なんです。そうでしょうが。信心しておれば、ね、「死ぬるにも連れがいろうが」と。「信心しおりゃ、それ・・信心・・死ぬ時まで連れは・・連れはいらん」と言うのは、言いたいような感じもするような事がここにおっしゃってありますけれども、なら、「信心に連れはいらん」と一番始めにおっしゃっておられる信心とは、どういう信心か?というと、「日に日に生きるが信心なり」という信心なんです。という事になって来ると、ここが生きて来るはず。信心とは、「日に日に生きると言う事」ね、それを、ならもう一つ、深く頂くと、「信心とは日に日に死ぬる」と言う事になって来る。ね。今日の信心はもう明日の信心であってはな・・ならない。そこにさらな信心、新たな私の誕生がある訳です。ね。そういう信心を、させていた頂いていけばです、ね、もう御徳が受けられる事は、もうま・ま・間違い無いですね。ほんの今日のに・26節なんか、この、ふた・二人の、ね、二重、重なっての御徳と、ここは頂きます(  ?  )に、ね、これはどういう事か?言うとね、そのおー あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけると言う御徳であるんですがね、そのおーんー 死生観を歌っておられるんだと思いますね。の、素晴らしい、例えば、御道で言う信心の、おー 死生観。寝。そこまでいかんとですやはり連れがいるような感じですけれども、連れはいらん、一人、これは、この、一人、「一人に行ける」「安心して行ける」と、そういう御響きが其の内容にあるように思います。そこで、もう一遍読ませて頂くとですね「信心に連れはいらぬ一人信心せよ、信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうが、皆逃げておるぞ、日に日に生きるが信心なり」と、ね、「日に日に生きるが信心なり」それを、例えば、今日はどういう見地からここを頂いたか?と言うと、ね、「旅は道ずれ、世はなさけ」と言う、そこから頂いたと、連れはいらんのじゃない、し・・信心には、連れがいる、連れを作らないけん、ね、「自分の、我が身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬこと」とおっしゃるように、自分が、例えば、形の上に助かり、心の上に助かっていっておるならばです、そこに、形の上に難儀をしておる、心の悩みを持っておる人にです、ね、話さなければおられない、それが、「世はなさけ」のこと、それが信心。ね、そこに、道連れを作る、そこに一人一人が助かっていく、ね、同時に24節を(  ?  )ですね、「人にさそわれての証拠と無しの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ」と、「つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞその身から打ち込んでの真の信心をせよ」 とこうおっしゃる。ね。ここんところの、おおー
例えば、(  ?  )においては、信心に連れはいらんと言われる、又、さそわれてからぐらいの事の信心じゃあ、そりゃあつけ焼き刃だ、的なものですから取れやすいのである。ね。だからその、この26節は、色々に頂けれる。けれども、やはり、その、この全部を貫いてですね、貫いておるもの、この御理解の全部を貫いておるものはです、「信心に連れはいらぬ」と言う信心とは、「日に日に生きるが信心なり」という、そういう信心だと言う事を、ここに貫かせて頂きますとです、このし・・御教えが大変有り難いことになって
来るように思いますですね。それをよく考えてみてください。「日に日に生きるが信心なり」これを繰り返しただけでもです、心にはずみが出て来るような感じの御教えですね。
どうぞ。